「食べられる魚の身になれ」の偽善

いや、別に偽善シリーズ(http://d.hatena.ne.jp/Burke/20050304#Burke)にしようとは思ってないんですけど(汗)。

よくいらっしゃいますね〜。ネットまわりに特に。

バスを違法放流したわけでもなんでもない、一般のバスアングラーに対して、「食べられる魚の命のことを考えたことがあるのか! その魚の身になってみろ!」と、半ば恫喝的に仰る人。言葉は丁寧でも、結果的に、それはある種の恫喝なんですよね。

でも、そんなこと言われても――と思いませんか? バスに限らず、釣り人諸氏。

バスだって、いかに親が守っても、ばかばか稚魚のときに食べられてますね。

捕食者といっても、例えばあるところでは、成魚も、チャンネルキャットフィッシュにばかばか食べられてますね。

そのとき、「バスの身になって考えろ」って言いますか? 普通。言いませんよね。

実は、このときには、人為も非人為も関係のない論点になってるんですけども。

バスを駆除している人と在来魚を生活の糧にしておられる方々と、バスアングラーと――彼我の差は?


これって、言い始めたら、際限の無い話で、いかに、そういう言挙げする人が、「命」というものに対して真剣に思索していないかという証左ではないかと。

バスに食べられる魚も、魚を食べてたり、水棲の生物を食べてたりするんですよね。
そういう人たちは、そのとき、その魚なり水棲生物、プランクトンなりの命のことを慮ってるんですかね、本当に、我が家族のことのように。

釣りをする人がもしそういうことを言ってたら、僕は、眉に唾をつけたくなります。
生き餌として、なんらかの命に、針を串刺しにしてるんじゃないんですか、と。そのことまで考えて仰ってますか? と。浅慮が過ぎるんじゃないですかって。

こういうのは、すべては、個々人の思い入れの問題だと僕は思います。

怪我をしたウサギを治して野に返して「無事生きていけるかな」と気を揉んでいる人と、鷹を育てた人がはじめて鷹に狩りをさせて「ちゃんと食べ物を確保できるかな」と気を揉んでいる人――。

熱帯魚に金魚やメダカを与えて、その成長・成育に精力を傾けている人と、大切に金魚を育てることに腐心している人――。

そうした思い入れの差は、まさに十人十色であって、それは善し悪しの次元で語られるべきことではないと僕は思っています。

このような一種の不条理、人間という生き物の感情の傾きのグラデーション――これらは、文学なりなんなりで語られる次元にあると僕は考えています。