秋月岩魚さんを批判してみちゃったりなんかして(^^;;。

※以下は大昔に書いて、あまりの長さにお蔵入りしたものの抜粋です。
 本来は、前向きに、もう批判のし合いはやめて、具体的なビジョンを語るべき時期ですが、やはり、自他共に認める「おおもと」については、きっちりどこかに書いておくべきだと思い、書き記す次第です。

 他の規制派の方、申し訳ありません。

http://d.hatena.ne.jp/Burke/20050324
でも述べたように、(その最過激派・急先鋒であられる「ブラックバスがメダカを食う」の著者[辣腕週刊金曜日系編集者?が関わっておられたことが知られている]−枕詞(笑))秋月岩魚さんの言い分には、個人的ツッコミどころ満載です。

前にも書いたように、腰巻の「『バス釣り』は犯罪である」、なかの文章の「たしかに、規則のなかった県などの場合、法的に違法といいきるのは難しい」と書いておきながら、「だが、本書では、『密放流は犯罪である』といいきってきた」と書いて憚らない、その根拠の薄弱さ、一般のバスアングラーを「犯罪教唆」「犯罪幇助」という犯罪に当たるのではないか、などという出鱈目さ――書名のひどさを見ても、確信的でしょうね。「言葉」の持つ怖さを知っていながらの……。


本書の最大の問題は、初期以外の拡散は、すべてバサー・バス釣り業界の「『密放流という犯罪』」によるものである、との「断定」「決め付け」から全ての論を組み立てている点によるところが大だと言えるでしょう。これがそのまま今のマスメディアの理解になっているところが大だと思います

当然のごとく、「混入」による拡散など他の要因については、その可能性についてすら、一行たりとも触れられていませんし、一顧だにされてもいません。

釣り人の手によるものもあった。そうですね。しかし、他の魚種の拡散をどう説明されるのか、その考えはまったく語られること無しです。

あ、ブルーギルについてだけ、「釣り人がバスとセットで」論で全て片付けておしまいにされていますけど( ̄∇ ̄;)ハッハッハ。

(前略)バスはその後、徐々に生息する場所を広げる。前にも書いたように、芦ノ湖は閉鎖水系だから、その拡大は当然、すべて人の手によるものだ。1936年までに、長崎県白雲池、群馬県田代湖、兵庫県の峯山貯水池、山梨県山中湖などに移殖された。/赤星氏の著作にも、山中湖、白雲池、峯山貯水池の名が挙げられている。白雲池に移殖したのは長崎県水産課に頼まれたからだったが…(後略)


このパラグラフを読んだ一般の人は、どう読むでしょうか。

最後の、「白雲池に…だったが」の部分を読むと、まるで、それ以外の「人の手」が、すべて「釣り人の手」であるかのような印象も与えかねない文章になっていると思えるのは、釣り人の僻目でしょうか。この前後の文章を見れば、余計、そう読み取れそうなのですが。

これは、スリードだと私は感じます。

また、この本では、冒頭から末尾に至るまで、終始一貫して「密放流という犯罪」というフレーズで貫かれています。
1992年以後も、漁業調整規則改正後もへったくれもなく、初期の移植以外のすべてを(釣り人による)「犯罪」と断定し、その結果、以下のような文章が出来上がります。

(前略)バス密放流という犯罪の恩恵にあずかる人は非常に多いのだ。自分自身が手を汚さなくても、釣り人がバスを望む限り、バスのフィールドは増え続ける。それは極論すれば、犯罪教唆とか犯罪幇助という犯罪に当たるのではないかと、私は思っている。しかも、自分が手を汚さないだけにずるいともいえるし、罪の意識も薄い。(後略)

一応、遠慮がちに「極論すれば」とのエクスキューズが入っていますが、「釣り人」を「犯罪教唆」「犯罪幇助」扱いです。言葉としては、ここだけですが、この論理は、何度も使いまわされていますから、心底そのように思っておられるのでしょう。
さすがに文庫になっても使われ続ける腰巻は伊達じゃありません(笑)。

それにしても、一般のバスアングラーに対して、
「自分が手を汚さないだけにずるい」
とは、一体、如何なる論理でしょう。

こういうのは、普通、任侠の世界で、自分は命令だけして、鉄砲玉として人を送り込んで殺人などをさせた場合に出てくる言葉じゃないんですか?
政治の世界の議員と秘書の関係とか。

上の文章だと、一般のアングラーが、「極道の親分」か「汚職政治家センセイ」のようになってますね( ̄∇ ̄;)ハッハッハ。いやあ、アクロバティック。

試みに例を挙げれば(例によってまた良い例とはとても言えませんが)、例えば、北海道は「侵略してアイヌの方々から奪った地」です。

アイヌの方々からすれば、たまったものではありません。連続性から言っても、国家(ここではステートを指す)は、そのことに対して配慮を巡らすべきでしょう。当たり前のことです。

しかし、だからといって、時間軸を無視して現在の「法体系」や「価値観」や「知見」から、今、北海道に住まう方々に対して、「お前たちは『人権』の美名の下、恩恵を享受しているが、侵略した上に立って面白おかしく生活を営んでいるのだから、『犯罪教唆』『犯罪幇助』も同然だ。直ちに出て行くべきだ」などということが、一般通念として、通用し得るでしょうか。

現在、北海道に住む方々ひとりひとりは、「法的責任」を負っているのでしょうか。
「道義的責任」を負っているのでしょうか。
北海道に転居した人はどうでしょうか。
「侵略」においてすらがそうなのです。

また、「違法な密放流はいけないと思いますよ。でも、密放流するような人と、そこにいるバスをただ釣っているだけのわれわれを、一緒にしてほしくない」という、私には、至極真っ当と思える釣り人の言葉も、著者に言わせると「欺瞞」であり、「自己正当化」しているに過ぎず、「犯罪によって育成された土壌に成り立つ遊びや商行為が、法治国家である日本で、許されていいはずがないのだから」となってしまいます。

あれ?? この本の初版っていつでたんでしたっけ??
日本は法治国家ですが、バス釣りやその関わりの商行為は、まさに法治国家だからこそ、今でも許されているはずだと思うんですけど。

また、著者がバス釣りというものを全くわかっておられないのがよくわかる箇所もあります。


(前略)「バスは魚の中でももっとも習性のわかっているものであり、バス釣りは知恵と技術を駆使した自然との闘いである」とコメントしていた。たんに魚を釣るといっても、地形を読み天候を読み、習性を知って.行動を推理し、その結果が釣った魚の数であり大きさである。つまり、魚の生態やその場所の環境気象条件をすべて頭に入れて闘うから、自然との闘いだというのである。しかし、人工物でなく生き物であれば自然、釣り堀でない天然の湖にいるから自然、では、あまりにも単純すぎないか?(後略)

(前略)高速のバスポートを走らせ、魚影探知機を駆使してポイントを探す釣りが、釣りという遊び本来の喜びを与えてくれるものかどうか、まず疑問に思う。(後略)

(前略)昔、釣果を左右するのは「運、根、勘」といわれた。そんな不確定な釣りがイヤでバス釣りに夢中になった人が多いことを考えれば、いうだけ野暮だが、釣りの喜びとはむしろその不確定性がもたらすものではなかったか。なぜ釣れるか、わかるようでわからない。あるときは効果のあった方法が、次のときにはまったく役に立たない。だからこそ、人は釣りに夢中になっていったのだと思う。バス釣り人は「ぼくらだって同じさ」というかもしれないが、高速のパスポートで移動時間を稼ぎ、魚探によってポイントを見つけ出す釣りは、「運、根、勘」に頼り、自然と向き合って行なう釣りとはやっばり異質だと思う。(後略)

これについては、言葉を要しないと思いますが、「不確定性」があったり、「あるときは効果のあった方法が、次のときにはまったく役に立たな」かったりするのは、バス釣りだって一緒だと断言できます。当然、「バス釣りだって一緒です。釣りなんですから」と僕だって言います。

……本当にバス釣りのこと、なんにもわかっておられないんですね。バス釣り15級の僕に言われたらおしまいですぞ! 僕は、「高速バスボートを走らせ」たこと無いんですけど(^▽^;)。

秋月さんは、海の船釣りまで否定しちゃってますけど、ご自分で「地形を読み天候を読み、習性を知って.行動を推理し」と書いたことを忘れてしまったのでしょうか?

このような論の運びで「自然と向き合って行なう釣りとはやっばり異質」などというのは言葉遊びが過ぎると僕なんかは思ってしまいます。


(前略)これも後述するが、実際に雑誌にはこのような内容の投稿が多い。「バスを愛するぼくらだからこそ、自然を大事にし、ゴミを捨てないようにしよう」とか、「バス・アングラーが嫌われるのは、ゴミを捨てるなどマナーが悪いからだ。バス釣りを理解してもらうためにも、マナーをよくしよう」などといった投稿が、とりわけ若者に多い。それを目にすると、否定することが難しい現代の一大テーマ、自然保護の美名を利用しているだけではないか、と思ってしまうのである。
バス釣り礼賛記事を掲載しておきながら、文章の末尾に「違法放流はやめましょう」という一文をつけ加えるのも、まったくの矛盾である。「私たちはバス釣りを推奨してはいるが、違法な密放流とは無関係です」というのは、たんなる免罪符にすぎない。(後略)

ここもあまりにあんまりでごじゃりますがなo(T◇T)o。
「たんなる免罪符」って……「たんなる……」って……。「免罪符」って……。

「バス害魚論」「バスが生態系に与える影響」に「マナー問題」が関係ないことは基本的にはその通りだと思います。

が、「自然保護の美名を利用しているだけ」も何も、上のような文章は、「マナー問題」をどうにかしよう! との心ある釣り人の呼びかけ以外のなにものでもないのであって、何が「美名を利用しているだけ」なのか、理解に苦しみます。

「バス・アングラーが嫌われるのは……」という文章のどこが間違っているのでしょう? ゴミを捨てないようにしよう、という呼びかけのどこが「美名」を盾にしていることになるのでしょう?

野池で「釣り禁止」の看板が立てられるのは、ほとんどの場合、「生態系」のせいではありませんでした。「バス」のせいでもありません。
それこそ、「マナーの悪さ」によって「バス・アングラーが嫌われる」からに他ならなかったのではありませんか?

それに、自ら、後ろの方に、

(前略)異質というだけなら問題ではないが、現実にバスボートは深刻なあつれきを生んでいる。まずは、これまたマナー問題である。湖を走るルールを知らない、夜でも無灯火で停泊する、大型エンジンを積んでいるので、漁船とハチ合わせしてもスピードをゆるめないなどよくも事故が多発しないものだと思うほどの野放しぶりである。(後略)

 と、“まさしく”「マナー問題」で言挙げされているではないですか。

きっと、秋月さんはバス釣りを楽しむな。肯定するな」と仰りたいのでしょうが、このように読んでいくと、僕などは、逆に、「生物多様性保全」の「美名」を「利用」されているのでは? と軽口を叩いてみたくもなるというものであります。

以上、一度は言っておかなければならないことではありましたが、不快になった方、秋月氏と立場を異にする規制派の方々、すみませんでした<(_ _)>。