頭の鈍い僕もエセ宗教用語のウソに気づいてしまった。

ともかく、リリースを批判する、いかにも「正論」の、この短いフレーズに、いくつもの矛盾や偽善があることに、頭の鈍い僕も気が付いてしまいました。

そもそも、「成仏」とはなにごとでしょう。

小座部仏教者……例えば、チペット仏教のペマ・ギャルポ氏やあるいは、ラディカルブッディストを自認する評論家・宮崎哲弥氏などが食事時に聞いたら、食べているものを噴き出すことでしょう。

確かに、日本には、漁をすることで生計を立て、我々の食卓に魚を供給してくださっている職業漁師の方々が獲った魚に成仏してもらおうという趣旨の寺は「あるようです」。インターネットで検索すれば、ヒットするようですし、実際、「成仏」という言葉もそこでは使われているようでもあります。

また、いわゆる「霊能番組」などで、「地縛霊を成仏させる」などという、本来のブッダの教えとは程遠い使われ方も氾濫しています。

しかし、仏教が中国を経由日本に渡り、「成仏」という言葉が定着してこの方、本来「成仏」というのは、「人間が悟りをひらいて仏に成ること」という意味であり、それ以外の使い方は、有り体に言って間違いなのです。


 ――「成仏」――

考えてみれば、当たり前ではあります。

日本人には、八百万の神――神道的な考えも有形無形に意識の中にあるため、「死んだら皆、『神様』」といった思想との混線はあるのでしょうが、魚が、人間に食べられることによって悟りを開くなどというのは、荒唐無稽もいいところなのです。

人間が自分の空腹を満たすために、あるいは、美味しいという感情を経験するために、魚を食べる――それ以上でもそれ以下でもないことが、「にわか宗教家」の言葉によって流布され、多くの良識的な人々に「正しい考え」として承認されているのです。

何故、そんなに(知らず知らずにせよ)「成仏」という言葉を使うのでしょう。

それはおそらく――

 ――「釣った魚は、食べることで成仏してもらう。それが本当の釣りだ」

というと、価値についての「正しさ」が含まれ、なおかつそれが、哲学的、宗教的な雰囲気を醸し出すため、それによって、説得力が増すということなのでしょう。
 それが、かつての僕を含め、このフレーズが流布した理由だと思います。

 ――「釣った魚は、食べるべきだ。それが本当の釣りだ」

 だと、その論から、価値の正しさを巡る論拠がなくなり、ただただ持論を語っているだけ、感情論で言っているだけ、となってしまいますから。

ワンフレーズで、通りのいい言葉を――となって、自然、冒頭の言葉を選択することになるのではないでしょうか。

しかし、そもそもの仏教には、その発祥から、「殺生戒」という、他の生命を奪うことに対する戒めが重要な柱として存在しているのですよね。

殺生戒といっても、それは、「自分が殺生しないこと」ということであるらしく、熱心な仏教信仰者では無い僕などは、「自分の手を汚さなければいいのか?」と思ってしまうのですが、仏教の教えでは、「いい」のだそうです。

ともかく、その意味でも、「自分で釣りをして釣った魚は全て食べるべきだ」といった言葉は、真正面から、その「殺生戒」と衝突するのです。