「本当に偽善が無い」ということ。

確かに、釣った魚が息も絶え絶え、リリースしても意味が無いというのであれば、それが食べられる魚であるならば、それは出来る限り「食べる」なりして有効に利用するべきでしょう。
それが、言ってしまえば、魚を限りある「資源」として捉えた場合の、自然な考え方だと思います。

死んだ魚をゴミ箱に捨てるか食べるかといえば、後者こそが健全であるとも思います。

それこそ、「にわか宗教家」的な物言いをすれば、「(痛覚は無いにせよ)口に針をかけて、人間の慰安のための『遊び』という――しかし人間という生き物には欠かせない『業』に――付き合わせた魚へのせめてもの「供養」である」とも言えるでしょう。