「釣り全否定論」の偽善
「食べるべき」の対極に、「釣り全否定」とも言える自論を持つ人もいます。
「どちらも、『魚』という他の生命を『遊び』で弄んで、口に針を引っ掛けて喜んでいるのだから、同じ穴の狢だろう」と――。
このような方には、鮎の友釣りのおとり鮎をはじめ、活餌として針を通して放たれる生き物から何から、許せないことかもしれません。
この言い分には、僕は、「ひとつの思想的立場」としては、ありうる意見だと思います。
しかし、僕は、その思想は、やはり極端に過ぎるでしょう、と言わざるを得ません。
そういう人には、われわれ人間が、他の生命を、あらゆる場面でいかに「弄んでいるか」、考えてみて欲しいのです。
動物を檻に「閉じ込めている」動物園でもいい、
狭い水槽に人間の癒しのためだけに「囚われている」観賞魚でもいい。
競走馬でもいい。
籠の鳥でもいい。
昆虫採集でもいい。
人間の病気の治療の研究のために犠牲になってくれているマウス等実験動物たちでもいい。
不快「害虫」でもいい。
食卓に供されるブロイラーでもいい。
食における、北京ダックでも、鯛の活き造りでも、白魚の踊り食いでも――。
――どれも、他の生き物の生命を、人間のために「弄んでいる」のです。
もしくは、無用の痛みを与えているのです。
これら全てに「否」を言える人のみが、「釣り全否定」を「思想」として主張する資格を持つのでしょう。
僕たちは、当然のように、スーパーでパックになった魚介類や食肉を買い、喰らい、
同じく当然のように、風邪薬やらなんやらを服用しています。
しかし、その裏では、スーパーで陳列するまでに色々な方々が関わって、他の生命の生死と向き合っておられるのであるし、動物実験の結果、人間に効果がある、害がない、と判明した薬が、我々の入手できる薬となっているという現実があるのです。
それらを否定できるのは、それこそ「殺生戒」を重んじる敬虔なブッッディストか、あるいは上のような恩恵にあずかっていない過激な「動物開放論者」だけではないでしょうか。
そうでなければ、この物言いもやはり偽善だと僕は考えます。