害魚論はひとまず置いて考えてみると……

そして、バス害魚論はひとまず置けば、現代の子供たちの多くが、屋内の楽しみ“だけ”に没頭しているとするなら、そうした子供たちを野外にいざなう「入り口」として、その能動性や手軽さ、物理的距離から言っても、バス釣りは、立派に、その役を果たす釣りであると言えるでしょう。

そこから、他の釣りに移るもよし、そうでないのもまたよし……それだけの奥深さは、バス釣りは持っていますから。

そこで、マナーを――例えばゴミを捨てないよう――伝え導くのは、水辺で共にする僕たちの任でしょうし、親御さんの普段からの教育でもあります。
高度経済成長を経て色々なものを切り捨ててきた日本という社会の道徳的価値観の底力があるのかないのか試されるところでもあるでしょう。

いっそゴミのポイ捨てなどは、シンガポール並みに厳罰に処するようにしてほしいと常々思っているのですが……。

そこでリリースするも食べるも、(とりあえずここでは法が許すならと言っておきます)当人の自由です。

リリースするにしても、不用意に魚体を触りまくったりして、魚を死なせてしまうこともあるでしょう。

しかし、「死なせたくない魚を殺してしまった」……そこで学ぶこともまたあると僕は確信します。
それこそが、蚊や蝿を駆除するようにモノとして扱い駆除する活動とは異なる「趣味」です。
もちろん、蚊や蝿を駆除することは大切ですが、それらは原理的に趣味たりえないのです。遊びたりえないのです。
つまり、良い悪いでなく、それ以前に、別物、別作業、ということです。
それよりも、魚を金券の類と交換することが推奨されることの方が、その動機においても、上のような境界を曖昧にするという意味でも、空恐ろしい気が、僕はします。