にわか宗教家の尻馬に乗ってみる―変わらない思い

再び、僕も、「にわか宗教家」になって言わせてもらうなら、膨大な他の生命の犠牲の上に生命を維持している人間という存在が自身に抱える「業」「原罪」といった宗教的概念があり、「他の生命を利用して遊ぶ」という人間という種独特の行為のひとつである「釣り」もまた、人間の「業」である、と言えるのかもしれません。

しかし、その業とも言える行為によって、僕たち釣り人は「楽しみ」「快楽」を享受しひと時の安息を得て、人生の一頁とさせてもらっています。

そして、皮肉なことにその行為によって、人は他の生命と何らかの交感をした「心持ち」になり、幾ばくかでも「自然」というものを「理解した心持ち」になれるという逆説の中に、現代の人間は生きているのではないでしょうか。

この考えは、今も、僕の中で変わることがありません。
もっと早くに、出会いたかった……という思いもあります。
今、近代主義の権化と化した日本は病んでいるのかもしれません。
僕も、その病んだ日本から炙り出された病んだ人間です。