釣りをするということ

「水産」というのは、言うまでもなく、「漁業」と「遊漁」、両方の問題を考えるものです。

「漁業」は、「職業」として、漁獲などによって生計(兼業ならその一部)を立てている人を指します。

「遊漁」は、読んで字のごとく、「遊びの漁」――「趣味の釣り」のことです。

この趣味としての釣り人に含まれる人の中には、前の項で述べたように、「釣った魚は食べるべきだ」とリリースを批判する人々も含まれます。

彼らは、言い換えれば、「釣りは、食べるために行うべきだ」という固定観念を根強く持っているようです。

しかし、それは、率直に言って誤りです。

自ら遊びの釣りをしていながら、知らず知らず、論理の中で、価値の転倒が行われているのです。

「食べるために……」の「ために」は、「目的価値」を表しています。
その論理の必然として、「釣り」は、その「目的価値=食べる」‘ための’「手段的価値」ということになるのでしょう。

しかし、「目的価値」が「魚を食べる」であるなら、その手段が「釣り」である必要はまったくないのです。

職業漁師ではないのですから、近所のスーパーや安売りがウリの生鮮市場で買ったっていいはずです。

趣味の釣りというのは、存外、お金がかかるものです。

事前の道具を揃えることにも、釣り場へ行くにも、そこで釣りをするにも、釣り船に乗るにしても、多かれ少なかれことごとくお金がついてまわります。

それに加えて、多くの時間を必要とします。釣りの準備を整えるにも、釣り場へ行くにも、実際の釣りをする時間を考えても、時間を必要とします。

そして――ミズモノですから、必ず大漁・爆釣だとなるわけもありませんし、それどころか、一匹も釣れないことだって間々あるのです。
それは、魚群探知機を備えた釣り船においてだってそうです。

金銭的にも、時間的にも(この費やす時間を労働にあてたらどれだけの対価が得られるでしょう?)、「食べること」が「目的価値」であるなら、買った方が安くなる場合が多いでしょうし、それは、長い目で見れば見るほどにそういう結論になるでしょう。

そうであるなら、遊漁者にとって、「食べる」が「目的価値」というのは、大いなる錯誤なのです。間違いなのです。


遊漁者にとっては、「食べる」は、あくまで、結果的な美味しい余録であり、「釣り」をすることそれ自体が「目的価値」であると価値の再確認をするべきではないでしょうか。

それは、季節や天候、時間、潮の満ち引き、魚の習性・生態等を考えての魚との駆け引き、魚が針にかかってからの引き(の強さやあるいは生命反応それ自体)であったり、人によっては、自然の中に身を置くことによる癒し――釣りをしている間、日常の雑事を忘れられることであったり、頭をぼーっとさせて、あれやこれや釣りとは関係のないことに思いを巡らせたりすることであったり――そうしたこととも密接に繋がっているでしょう。

ほとんどの人にとっては、魚がたくさん、もしくは、大きな魚が釣れた方が喜ばしいことは言うまでもありません。

釣りの後の「美味しい余録」を楽しみにしている人も当然そうでしょう。

しかし、前述したように、それでも、「食べるための」ではないのです。

たとえ、その日の釣りが不首尾に終わっても、その経験が、以後の釣行に行かされるということもあるでしょうし、釣りの後、仲間と飲み交わし、釣果の良かった仲間と冗談を交わしたり、なぜ不首尾に終わったか侃々諤々したり……それも、「趣味の釣り」の一ページなのです。

そうでないなら、不首尾に終わったその日の釣りは、人生における単なる時間の浪費としか言いようのないものになってしまいます。
そんな金銭や時間の浪費を言う人が、釣りを趣味とするわけがありません。

繰り返し言いますが、たくさん、あるいは大きな魚が釣れた方が嬉しいに決まっているのです。
しかし、そういった意味においても、「目的価値」は「食べるため」ではないのです。

あくまで、釣りをすることそれ自体が、遊漁における「目的価値」なのです。

「目的価値」が「食べるため」でないのなら、「食べる」ことは、決して「趣味として釣り」に必須の条件ではないのであって、「食べる」があってもいいし、「なくてもいい」ということです。

趣味としての釣りとは、そういうものだと僕は考えています。