「プロフェッショナル」ということ

まず、一般的な「プロフェッショナル」について考えてみましょう。

「プロフェッショナル」とは、何かと引き換えに金銭に代表される代価を得ることです。
更に狭い意味では、そのことを生業にし、それによって生計を立てている場合のことを指すのでしょう。

「金銭を得る」からには、その生業とする事柄について、基本的には、「資格」、「技術」、「経験」、「実力」、「環境」のいずれかまたは複数の条件について、そうでない人――「アマチュア」――と異なっている必要があります。上下を言うならば、上でなければ、「銭」は取れない、もしくは取りにくいのが普通だからです。

逆に言えば、「アマチュア」と比較して、それで生計を立てているということは、より多くの時間と精力を投入できるわけですから、一般的には「アマチュア」より秀でていることの方が多いわけです。
だからこそ、稀にその状態が逆転した状況が現出したとき、人は、驚きを感じるのでしょう。

では、プロスポーツ、芸能、演劇、囲碁・将棋といった遊戯文化のプロ……等々、観客や消費者に「なにかを」見せる、魅せることによって、生業を立てている場合はどうでしょう。

このグループには、釣りにおける……釣りデモンストレーター、競技プロ、競技プロではないけれどもメディア露出し釣りを実践することによって自分の開発した商品や関わった商品の販売促進をするといったプロも含まれます。
当然、収入は、そのカテゴリーの人気によって左右されます。

この場合、そのカテゴリー内における「プロとしての」優劣なり順列なりはどうなるのでしょう。

普通に考えれば、それは、俳優でいえば演技力や見てくれ(良い方がいいとは限らない)、釣りで言えば、釣りをする腕、でしょう。

しかし、それは、決してイコールではないのです。
もちろん、競技として成立しているカテゴリーであれば、それが釣りであろうが将棋であろうが、トップからそれに近い順に多い金銭を稼ぐでしょう。しかし、それは、あくまでその競技で稼ぐ金額です。

こうした、(メディアも含めた)「観客」を相手にする「プロフェッショナル」における「実力」とは、一体、何を指すのでしょう?

繰り返しますが、この場合、どこから金銭がもたらされるかと考えれば、それは(メディアも含めた)「観客」からです。

とにかく「観客」がいなければ、「プロフェッショナル」たり得ないのです。

「観客」を呼ぶためには、「観客」の求めるものを提供−「観客」を喜ばせるなり楽しませるなり(悲しませるなり怒らせるなり)−しなくてはならないでしょう。

ことこの文脈において「プロフェッショナルの実力」とは「アマチュアより優れていること」だけを指すのでしょうか?

筋道を辿って考えれば、この場合の「実力」とは「観客の望むものを提供する能力」だと言えるでしょう。
つまり、釣りにおけるプロで言っても、必ずしも「実力」と「釣りの腕」とが直ちにイコールで結ばれるとは限らず、「観客の望むもの」が「釣りの腕」であったときに、初めてそれはイコールで結ばれるのですし、「観客の望むもの」が、(あるいは「腕」に付随しての)「知的さ」や逆に「野蛮さ」や、あるいは「明るさ」や「こだわり」や「信念」、「格好良さ」や「発する言葉の力」であったときにはそれを提示できる能力こそが「実力」だとなるのです。

それを「カリスマ性」と言っても「個性(キャラクター)」と言ってもいいのですが、イコール技術と直結されるものではないということだと思うのです。

イコールであるかもしれないけれども、ニアイコールであるかもしれない……いずれにせよ、その等式(なり不等式なり)の間には、「観客の望むもの」という要素が入り込むということです。

とりわけ、釣りのような自然・準自然と魚という生命とを相手にする(広義の意味における)スポーツの場合、完全な「技術の測定」がわかりにくい、測定可能な形で明示されにくい、ということもあります。

その中でも、比較的、「されやすい」のは、天候や季節、水の状況などによる魚の動きや状態……つまりそういう意味での生態……に関する情報が蓄積されている釣りだと言えるでしょう。

更に言えば、同じ条件下で、プロたちが釣りをすることで、それが、もっと測定可能な形で明示されやすい、となります。そのプロの相手はあくまで「魚」ではあるのですが、その結果として、釣りの腕の優劣や序列が出る……。

釣りにおいても、競技としての釣りなどが誕生したのはそうした理由もひとつにはあるのでしょう。

そして、それは、そのカテゴリーの大きさ拡大やカテゴリー内の密度・関心度をあげる目的にも一役も二役も買うことになります。

しかし、その結果として出た釣りの腕の優劣が、そのまま収入に結びつかない……これは、果たして「観客の望むものを提供する能力=実力」なのか、「観客がそう志向するようにしむける能力=実力」なのか、鶏と卵のような話で、加えて、「釣り」で言うなら、「釣り」というカテゴリーと他カテゴリーとのパイの取り合い、鬩ぎ合いという、総体としての作用もあるので、難しいところですが……。

これが、良いのか悪いのか……?

もとより、資本主義・市場というのはそういう性格を持っているものなのでしょうが、ただ、そのカテゴリーの隆盛や人気を長期的に考えれば考えるほど、「目先の利益」に血道を上げるより、そこには、マナーや節度、啓蒙、育成、あるいは、そうしたもろもろの基盤・基礎を整えることが、迂回のようだけれども近道となることは、間違いないでしょう。