子供の情操の論点・補足

バスがいるいないと子供の問題は確かに直接関係ないですよね。
別にバスがいない時代・空間においても、子供たちは同じような遊びをしてたでしょうし、それがバスで「なければならない」必然性はなんにもありません。

本当にそうですよね。

でも、現在の「バス“釣り”」を取り巻く様々な問題が、将来の水辺の光景と同じ地平にあるのは間違いないと個人的には考えています。

少なくとも、僕はそう思います。

僕が幼少の頃も、近くで、ザリガニ釣りしてました。凧糸で。
そのころの僕にとっては、別に、それがアメリカザリガニではなくて、(そんなところにいるわけないけれども)ニホンザリガニでもなんでも良かった。


でも、捕まえたそのザリガニを飼っちゃいけないとか一度捕ったら放しちゃいけないとかいう話だったら、思いっきり、関係あるわけです。

自然体験・野外体験は、別に釣りである必要は無いです。
でも、今、話の中心に置いているのは、釣りの話です。

いわゆる「特定外来生物被害防止法」は、「リリース禁止」と決して無関係でなく、バスの「リリース禁止」は、トラウト類の「リリース禁止」と決して無関係でなく、「侵略的移入種のリリース禁止」は、アメリカザリガニのリリース禁止とも決して無関係でない、そういうところに僕らは、良かれ悪しかれ立っているのであって、そして、それは、僕は現認してないけれども、現在のリリース禁止の湖でのある父子の風景とも決して無関係ではない……そう考えていくと、当然、未来において、その風景がそこここで見られるという可能性とも地続きだと思うわけです。

そして、そんな風景は、どちらの側にとっても歓迎していることではないだろうとも思うのです。

そう考えれば、「そんな光景見たくない」という「自分自身」との関わりという意味でも、それは、自らの生活体験と無関係に一足飛びに「地球にやさしく」とか語っちゃうのとは違う――自分が見たくないし、望みたくない未来ですから。